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10/1のオンラインセミナーでいただいた質問とご回答

回答者:「門前宿 和空法隆寺」の専任ガイド 中江太志氏

実際にセミナーを見て
Q. ヒノキを4等分して柱にしていることは、初めて知った。先人の知恵は素晴らしい。他のお寺や神社で、同じようなことをしているところがありますか。教えてください。
A. セミナーでお話しした一本の丸太を分割して芯を取り除く技法は、当然ですがそれだけの大きさを持つ丸太が採取できる時代に限られます。
例えば法隆寺からほど近くにある法起寺 三重塔(飛鳥時代後期)では同じ技法が使われていますが、当然伐採が進めば巨木は無くなります。
この技法が使われたのは、具体的には奈良時代中期頃まででしょうか。法隆寺の西院伽藍でも、平安時代中期に建てられた大講堂の柱などはかなり大きな割れ目が確認できます。つまりその柱は、芯を取り除けなかったわけですね。
一つの境内に様々な時代の建物が共存する法隆寺ですから、いくつかの建築物を回って比較をするのも楽しいですね。

また江戸時代前期に入ると、事前に目立たない場所に一箇所だけ切れ目を入れる『背割り』という技法が多用されるようになりました。
芯を残す最大のデメリットは“どこから割れるかわからない”ことです。事前に一箇所割っておくことで、他の部分が割れなくなるわけですね。
これは今も使われている技術ですから、街中で建築中の現場を覗くと大きな柱には最初から割れ目が入っていることが確認できます。
実は今回紹介した中門の裏側にも、一本だけ江戸時代に入れ替えられた柱があります。その側面には背割りをした跡がはっきり残っているので、もしよければ探してみてください。
仏像関連
Q. 本尊 釈迦三尊像を参拝することが出来なかったので、見る機会がどんな時にあるのか知りたい。
A. 本尊釈迦三尊像は過去に特別展等で出品されたこともなく、基本的には年間を通していつでも拝観が可能です。秘仏 救世観音立像の事でしょうか?
もしそうだとすれば、救世観音立像の拝観可能時期は 春 4/11~5/18 秋 10/22~11/22の年間約二か月になります。
その他の主な秘仏公開は 上御堂 釈迦三尊像 11/1~11/3、伝法堂 阿弥陀群像 7/24 18時~20時頃などがございます。
(2022年10月14日(金)現在)
Q. 釈迦三尊像、救世観音、百済観音にまつわる歴史と物語について
A. セミナーでは時間の都合上省略した、救世観音立像にまつわるお話をさせて頂きます。

法隆寺東院伽藍 夢殿のご本尊である救世観音立像は、飛鳥時代前期に造立されたことがほぼ確定している仏像です。飛鳥時代特有の顔付きにも注目ですが、一番のポイントは1,400年前に造立されたとは思えないほど多く金箔が残ること。
それは本像が長らく秘仏であり、劣化が少ないからです、。法隆寺の記録によると聖徳太子信仰が盛り上がる平安前期頃から、ほぼお目に掛かれない仏像だったようです。
ただその頃はあくまで“ほぼ”秘仏。完全に厨子が閉じられたのは鎌倉時代に入ってからでした。
そのきっかけは1227年に行われた法要行事。その本尊として本像の模造を造ることとなりますが、その際彫っていた仏師が奇妙な死を遂げたそうです。
「祟りがあるんじゃないか」そう恐れた法隆寺は、そのタイミングで救世観音立像を完全秘仏化。1884年(明治中期)になるまで寺のトップですら拝むことが出来ない状態が続きました。

そんな封印が解かれたのが1884年。アメリカ人の国宝研究家アーネスト・フェノロサとその助手 岡倉天心が、文化財調査の為、救世観音立像の開帳を法隆寺に求めました。
当然寺は断りますが、二人は政府の許可状も持っています。最終的には法隆寺側が折れ、フェノロサたちは600年ぶりに救世観音の尊顔を拝んだと言われています。
その時のフェノロサ日記によれば、救世観音像は500mほどもある白い布でぐるぐる巻きにされていたようで、彼はその姿を見て「モナリザの微笑に劣らない」と称賛しています。
こちらが簡単な救世観音立像の秘仏開帳話。ただこの話には数点不可思議な点もあります。

例えばその一つが、1227年に完全秘仏化したという法隆寺側の記録。
それを信じるなら救世観音立像は約600年ぶりに開帳されたことになりますが、当時のフェノロサ日記には“200年に亘って一度も開扉されなかったこの仏像は…”と書いてあるのです。
つまり両者の意見が食い違っているのです。フェノロサが法隆寺を訪れた1884年の200年前は、セミナーでもお話しした桂昌院が、法隆寺に多額の寄進を行った元禄期に当たります。
その際桂昌院によって厨子が新調された記録があるため、もしかするとそこで救世観音立像の秘仏は一度解かれたのかもしれません。
そもそも秘仏を白い布でぐるぐる巻きにする例自体、他ではあまり見られません。 あくまで推測にはなりますが、500mにも及ぶ白い布は厨子を交換する際に仏像を移動させる必要があり、その保護剤として巻いた。そして厨子を入れ替えた後、その状態のまま安置した、なんて考えるのも面白いですね。
Q. 金剛力士像ですが。阿形像(あぎょうぞう)、吽形像(うんぎょうぞう)の違いを知りたいです。
A. 金剛力士はほとんどの場合寺の正門に立っており、憤怒の表情で拝観者たちを睨みつけています。その理由は、簡単に言うと寺に仏敵が入ってこないように見守る門番ですね。
阿形と吽形の違いで最も分かりやすいのは口元です。名前のとおり阿形は口を「あー」と開けていますし、吽形は名前のとおり口を「うん」と閉じています。

それ以外には、二体の配置にも注目してください。向かって右側が阿形、左側が吽形と覚えるといいかと思います(一部例外有り:東大寺 南大門と三月堂の金剛力士は配置が逆です)。
ちなみに法隆寺中門に安置されている両像は711年に造立されたもので、金剛力士像としては国内最古の作例になります。
元々塑像(土造り)なので後世の補修がかなり多いですが、非常に価値ある像なのでしっかりご覧いただけたらと思います。
Q. 百済観音、夢違観音、玉虫厨子など宝物の由来など現在、東京国立博物館法隆寺宝物館にある宝物がどういう経緯で皇室に献納されたのか など
A. 法隆寺宝物館の由来についてはセミナーでお話させて頂いたので、こちらでは百済観音について少し触れされて頂きます。

法隆寺 大宝蔵院に安置されている百済観音立像は、寺内に多くある宝物の中でも特に人気が高い仏像になります。
おそらくその人気の秘密は、209cmのスラッとした独特な造形と、これだけ大きくて有名なのにいまいち由来がわかっていないミステリアスな所。
「百済から来たんじゃないの?」と時々聞かれますが、実はそういうわけでもなさそうです。
本像はその造形法や技術などから推測すれば、飛鳥時代中期、つまり朝鮮に百済王朝があった時代に造立されています。ただ意外にも古代の記録には一切登場しないのです。
初めて書に登場するのは、なんと江戸時代に入ってから。そしてその江戸時代の資材帳に『本観音像は百済より伝来した』と書いてあったのです。
まぁそれだけだと説得力に欠けますが、この時代他に類例がないこともあり一定の信憑性があったのでしょう。気付けば明治頃には『百済観音』という名称が一般的になりました。
但し後の調査で本像が日本原産のクスノキで造られていることが明らかとなり、状況は一変。今では日本産であることがほぼ確実視されています。
とは言っても、わかっているのはそこまで。誰が?どこで?何のため?こういったあたりは確定していない、今も謎だらけのミステリアスな仏像です。

一つヒントとなるのは、セミナーの最後にお話しした東京国立博物館(法隆寺法物館)で保管されている飾り金具『国宝 灌頂幡』です。
実は近年、百済観音が腕に付けているブレスレット(腕釧)の形状と、その灌頂幡の縁に見られる模様が完全一致することがわかりました。
つまりこの二つの宝物は、同じ工房で同じ金型を使って造られた可能性が大。そしてなんと、由来がハッキリしない百済観音とは違って灌頂幡には記録があるのです。
奈良時代の法隆寺資材帳によれば、灌頂幡は聖徳太子の娘である“片岡御祖命(みおやのみこと)”が、亡き兄“山背大兄王”供養のために造り法隆寺に納めたとのこと。
だったら同じ金型を使用しているはずの百済観音も、同じタイミングで同じ目的として造られ法隆寺に献納されたと考えるのが自然ですよね。
あくまで推測の域を出ませんが、この百済観音のミステリーが解読される日もそう遠くないかもしれません。
法隆寺の歴史、秘話など
Q. 建立された歴史的背景 飢饉か災害かそして、資金調達は。
A. 金堂で安置されている薬師如来像に刻まれた銘文によると、法隆寺は“用明天皇 病気平癒の為に薬師如来像を造り、その像を安置するため法隆寺を建立した”となっています。
その銘文の内容が正しいかどうかは諸説ありますが、それでも当時の都から20kmも離れた斑鳩の地に法隆寺が建立されたのは事実です。
ですからその造立理由が、この地に宮殿を構えた聖徳太子、またはその父、用明天皇の意向が在ったことは間違いないかと思います。
創建時の資金調達についてですが、発願者が用明天皇、またはその息子である聖徳太子であることから、予算は十分にあったと推測できます。少なくとも“創建時の資金調達に苦労した”と言った記述は古文書には見られません。

ご質問にある“飢饉か災害か”ですが、実は飛鳥時代の寺院で国家安泰や国家繁栄を目的に建てられたケースはほとんどありません。どちらかと言うと皇室や豪族の長の病気平癒、または追悼の為に建立される場合が多いですね。
しかし奈良時代に入ると、東大寺を始めとした国営の大寺院が国家安泰の為に建立されました。これは『仏教の力で国が安定しますよ』と書かれた金明最勝王経などが唐から輸入され、仏教に国家鎮護の力があると信じられたからです。
更に、平安時代前期には都に蔓延る怨霊と対抗するために寺が建立され、後期に入れば平安貴族たちが極楽浄土に行くためのシュミレーション施設として豪華な寺が建立され始めました。
つまり時代によって寺の造立目的は変化していきます。同じ仏教でも時代時代によって需要と供給が変化する。そういった変遷を辿っていくのもなかなか面白いかと思います。
Q. 飛鳥~奈良~現代の変遷、エポックメーキングな出来事・飛鳥時代の大工仕事や西岡常一さんの事績
A. セミナーにて飛鳥時代の工人たちの技術や工夫の一部をお話ししたので、ここではそれに関連して西岡常一氏についてお話しさせていただけたらと思います。

西岡常一氏は昭和を代表する名棟梁で、法輪寺三重塔や奈良 薬師寺の白鳳伽藍を再建したことでも有名です。
元々西岡家はずっと法隆寺を支えた宮大工家系で、常一少年も小学校に上がる頃には祖父に連れられ、法隆寺の建築を肌で学んだそうです。
生まれた頃から古代の工人たちの技術や工夫を学んできた常一少年は、農学校を卒業すると本格的に宮大工の道に進むこととなります。
彼が独り立ちしたのは昭和3年。この頃はちょうど300年に一度と言われる法隆寺解体修理の真っ最中。そこで多くの経験を積み、戦争で一時中断されながらも法隆寺の解体修理に四半世紀を費やしました。
そんな彼の残した業績は言い出したらキリがありませんが、少し変わったあだ名を持っていたことでも有名です。それは『鬼』。何ともまぁダイレクトな呼び名ですが、一体どういう意味なのでしょうか。

世界最古の木造建築から多くを学んだ西岡棟梁は、法隆寺の解体修理がひと段落した昭和42年には法輪寺 三重塔を、昭和45年からは薬師寺 一大伽藍の再建に注力を注ぐようになります。
ただ戦後の時代は日本の復興期。多くの新たな技術が海外から流入し、効率化、オートメーション化が急激に進みました。そんな中で棟梁の「古代の技術を古代のまま使う」というこだわりが、多くの学者たちとの論争へと発展していったのです。
飛鳥時代と現代は違います。資金がない、時間もない、何より今から100年後に木造建築を修復できる技術が残っているかもわからない。
特に薬師寺の再建事業では多くの学者が“1,000年後も持たせるため”、手入れが簡単で誰でも扱える鉄筋コンクリートの採用を求めました。しかし棟梁は「鉄筋など100年も持たない」「法隆寺は木造で1,000年持っている」と真っ向から対立。
その経験に基づく説得力と、学者たちに一切物怖じしないズバッとした物言い。いつしか「法隆寺には鬼がいる」と言われるようになったそうです。
薬師寺の場合は、最後には折衷案が採られました。例えば薬師寺の金堂などは、内部を鉄筋で外側を木造で分けて建てられています。法隆寺で世界最古の建築を堪能した後は、薬師寺に行って古代と現代の違いを肌で感じるのも面白いかと思います。
Q. 一般の観光客が見逃してしまう法隆寺の秘話、トリビア的な話。一般公開されていない箇所について
A. 今回のセミナーでは、普通の観光では見逃しそうなポイントを中心にご紹介致しました。そこでこちらの回答では、続けて“一般公開されていない箇所”に関する“見逃しそうなトリビア”をお話しさせていただきます。

法隆寺で秋に特別公開が行われる仏像としては、セミナーでもお話しした救世観音立像が真っ先に挙げられます。ただ実はもう一か所、あまり知られていない特別公開があるのです。
公開されるお堂の名は『上御堂(かみのみどう)』。公開期間は11月1日~3日の年間三日間のみで、その期間だけは堂内に安置されている平安時代の国宝仏 釈迦三尊像を拝観することが可能です。
ですからこの間に法隆寺を訪れると、秘仏救世観音立像の公開と合わせて拝観できるので少しお得ですね。

ただこの『上御堂 特別公開』自体はトリビアでも何でもありません。インターネットで検索すれば簡単に出てきますし、その期間に法隆寺を訪れれば境内に案内板も立っています。
ですからここからが本題。実はこの上御堂、本尊の公開がメインの様に紹介されますが、もう一つほとんど知られていない見所が存在するのです。
それは、堂内東側に何の案内表記もなく安置された一台の厨子。そちらは元々夢殿の秘仏 救世観音立像を安置していた厨子なのです。
というのも、救世観音立像の厨子は歴史上何度も造られています。まず初めは夢殿が建立された奈良時代。更に平安時代、鎌倉時代にも新たな厨子が新調され、その後は江戸時代初期に桂昌院から寄進された厨子が昭和まで使われていました。
しかし流石にその厨子も老朽化が進んだため、昭和に新調されました。そしてそれ以降使わなくなった江戸時代の厨子が、現在上御堂で保管されているのです。
つまり上御堂内部ににポツンと置かれた厨子は、言い換えればあのフェノロサが数百年の封印を解いて開帳した厨子。
本当に説明書きや表札も何もないので、上御堂を訪れる際は見逃さないようご注意ください。年間三日間だけしか公開しない、特別すぎるお堂に関するトリビアでした。
Q. 特に見逃してはいけないポイント。法隆寺を巡るドラマ、人間関係。
A. 境内はどこも見逃せないポイントばかりですが、強いて上げるならやはり西院伽藍『金堂』『五重塔』『中門』、そしてそれらを囲っている『回廊(廊下)』でしょうか。
よく世界最古の木造建築と称される法隆寺ですが、実際に世界最古、つまり飛鳥時代に建てられた建築物は今挙げた四か所のみ。ですからこれらのスポットは、時間をかけてゆっくり拝観頂ければと思います。

また法隆寺を巡るドラマに関してですが、こちらも言い出せばキリはありません。ただやはりお寺で大きなドラマが生まれる場面は、『財政難を克服した歴史』であることが比較的多いかと思います。
特に明治初期の廃仏毀釈の折は多くの寺院が廃寺に追い込まれましたし、法隆寺でも300点にも及ぶ宝物を皇室に献納するなど苦肉の策で財政難を克服しました。
ただ当然ですが、それが法隆寺にとって初めての経験だったわけではありません。聖徳太子創建とはいえ、法隆寺はあくまで私寺。国の保護を受け続けた寺ではなかった為、実は過去に何度も資金不足に陥っているのです。

中でもセミナーでお話しした元禄期の財政難は本当に大変だったようで、桂昌院から支援を受ける前にも様々な施策を行った事が当時の僧侶の日記からわかります。
例えばその一つが、境内の一般公開。法隆寺はこの時初めて寺を開放し、拝観料を取り始めたのです。ただそれでも足りない。残された道は、幕府のお膝元である江戸で宝物を公開する『出開帳』を行うことしかありませんでした。
と言うのもその少し前、長野の善光寺が江戸で出開帳を成功させて多額の資金調達を行った前例があったのです。しかし江戸で出開帳をする為には、当然幕府の許可が必要です。
当時幕府の頂点は五代将軍綱吉ですが、鍵となるのは綱吉の生母 桂昌院。“桂昌院”という名からも分かる通り、彼女は出家をしていて仏教への理解が深かったと言います。
善光寺の出開帳を支援したのもやはり桂昌院。ただ当然彼女は時の権力者。一介の寺の僧侶がフラッと行って会うことなど叶うわけがありません。

そこで立ち上がったのが、法隆寺の僧 覚勝(かくしょう)です。実は彼の親戚が、将軍綱吉の母 桂昌院の家老を務めていたのでした。
覚勝はそのコネを最大限活用し、江戸に出府。見事幕府の認可を受け、江戸で大々的な出開帳を行い資金調達を成功させたのです。
本来二か月ほどの公開だった出開帳は、あまりの人気で三か月に期間が伸びました。最終的には将軍綱吉も宝物を上覧し、幕府から寄進も受け、見事法隆寺は元禄期の財政危機を乗り越えることが出来ました。

こういった話は、法隆寺の歴史の中で何度もありました。その度に危機を乗り越え、だから今もここに法隆寺が建っている。その事実を噛みしめると、より法隆寺の凄さを感じますよね。